ディレクターズ・ノート 005
地と柄 2002/09/21
いまだ多くの人にとって、現代アートは「難解」でわからず、敷居が高いもののようだ。ここで、じゃあ、わかるとはいったいどういうことなのか、じっくりと考えてみる必要があるのだが、そのことはひとまず置いておいて、今回、会期中何回も繰り返した「ディレクターズ・ガイド」を通して、強く実感したことについて触れておこう。
それは、この競馬場という場について、ほんの少しの解説を加えただけで、人はずっと、アーティストたちの作品について興味を示すということだ。
この競馬場は冬に「ばんえい競馬」が開かれるだけで、その他の期間はこんな風にがらんとしている。けれど、ここは廃墟ではなく、すべてが実際に使われている。ほら、この馬房にも、冬には馬がつながれているのです。700頭以上の馬と、厩務員のご家族まで入れると4、500人の人間が入ってきて、ここに忽然と町が生まれるのです。
競馬場の西に広がった厩舎ゾーンは、昔の帯広の面影を今も残しています。駅から一キロほどのこの場所に、こんな風景が残されている。十勝における人と馬のかかわりを考えれば、これはひとつの文化遺産ともいえるでしょう。今回は現代アート展という名目で、こういう場所を地域に開きたかった。
地と柄ということを考えます。カーテンでも壁紙でもなんでもいいのですが、せっかくすばらしい地をもっているのに、普段は見慣れてしまってその良さに気がつかない。そこにちょっと見慣れぬ柄をつけてみることで、地の良さを再発見してもらいたい。『デメーテル』における現代アート作品とは、そんな柄なんだと考えてほしいのです。
ざっとこんな風に、自分の思いを伝えてみる。
しかしこの地と柄という考えは、私がずっと関心を寄せてきたことに他ならない。自分で話しているうちに、そのことに気づく。なぜ私は、自分の率いるP3というチームに、art
and environment、つまり芸術と環境というサブタイトルをつけたのか?
アートという人の営みを、周囲の環境と切断せず、その両者の相互作用に焦点を当てる。
今回、尊敬する評論家やジャーナリストのなかにも、映像作品について辛口の評価をする方たちがいた。映像作品はどこでも映せるので場所性がない、あるいは帯広と関係ない映像を持ち込む作家もいた、と。しかし、どうなのだろう。映像は、スクリーンやモニターの画面の中だけに閉じるものだろうか?そういうとらえ方は、額縁のなかにあるのが絵画、台座の上に乗るのが彫刻という考えと同じではないだろうか?実際、厩舎の奥に映されたキム・スージャのビデオ作品や、改造ゲルのなかで映されたシネ・ノマドの『スリー・ウィンドウズ』を、私は美術館の白い壁に投影されるのとはまったく違う感情で観た。
私は今、『デメーテル』で生まれた事柄が何であったのか、ゆっくりと考え始めている。
(芹沢高志)
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